くだらないことが自分を救う
こんばんは。
コロナで環境が変わったせいか、最近何だか変に仕事が忙しめです。
疲れたなあと思った時、私はくだらない話を聞いたり話したりするのが割とストレス発散になります。
コロナで制限がかかる前は、ある程度結末が分かりきっているような映画を時々観に行ってました。
頭を使いすぎないことで落ち着けているようです。
頭を使わない、はかなり難しいですよね。
常に色んな情報を脳が受け取っているので、
瞑想をするくらいでないと止まりません。
その点、頭を使いすぎないはくだらないと思うこと、考えてもストレスがかかりづらいことに気持ちが向けられればできます。
くだらないことに自ら気持ちを向けるって何だか変にも聞こえますね。くだらないのに。
割と好きなことだけどまあくだらないなと思うことに対象を絞ると分かりやすいかなと思います。
ちなみに、私はかぼちゃスイーツがわりと好きで、密かに推していた某コンビニスイーツのかぼちゃプリンが秋限定から今は季節問わず見るようになってテンションが上がっています。さらに、某高級志向スーパーで売っているかぼちゃプリンを最近初めて買ってみたらとても濃厚で、下に入っているほろ苦いカラメルソースとの合わせもとても良く、これを300円くらいで食べられるのはお得だなと思う次第です。かぼちゃは夏野菜ですが、秋冬になってもよく見かけるのでさつまいもと併せてついつい食べすぎてしまいます。。。
と、こんなことを書いていたら仕事のストレスを一時忘れました。自分で読み返してもくだらないです。
ただ、これはスイーツ業界で働く方にとってはどうでも良くないことだと思います。人によってくだらない内容が違うものですね。
少し逸れますが、私はこのこともあって「好きなことを仕事にする」はしたくないタイプです。
私の好きなことはくだらないと思うことが多いので、これを仕事にするとくだらなくなって変なストレスが絡んでくるのが見えてるんですよね。
くだらないままでいたいです。
大人になるとやらないといけないこと、どうでも良くないことがたくさん増えてきて、ついつい頑張りすぎちゃうこともあります。
頑張ることってとっても偉いと思うのですが、くだらないこともいれながらバランスよくいたいですね。
ではでは。
連絡の間をつくる
こんばんは。
初めの挨拶を抜くとこれで5つ目の記事になりました。
意外と書くこと思いつくものですね。
自分の脳の容量侮れないものです。
今日は連絡頻度に関する話をしたいと思います。
また仕事関連のお話ですが、
お客さまとお話ししていると「その話には絶対納得しない」と、こちらの話に強い反発の感情をぶつけられることがあります。
気乗りしない話は特に、そうなりますよね。私も一方的に「お菓子を食べるのを一生辞めろ」と言われたら納得できません。だってお菓子食べたいもの。いくら健康に良くないって言われても、首を縦には振らないと思います。「僕はyesと言わない」と某アイドルグループの曲が流れます。
話がズレました。とにかく、そういった反発がきたときは、一旦一定のところで引いた方がいいことが結構あります。押し引き大事。よく使う手としては「社内で打ち合わせてまたご連絡します」と。当たり前かもしれませんが、これが出来ない人は本当に多いと思います。どうしても意見を通して相手をねじ伏せたくなる人。
ただ、時間を置いて改めた方が、同じ内容でもすんなり受け入れられることがよくあります。2回目の方が感情的にならずにお話いただけることが多いです。変に1回目で頑張りすぎて時間をかけても、関係が悪くなって終わるだけだったらもったいないですよね。
また、次の連絡はあまり期間を空けすぎずにするようにしています。私は最悪でも1週間は空けないです。
人間はけっこう寂しがりやさんが多いと思ってて、あんまり期間があくと「放っておかれた」と感じます。
こちらはたかが1日でも、相手にとっては24時間、86,400秒なわけです。
どんなことであれ、自分のことを考えてくれて連絡をしてくれた、というのは逆よりはよっぽどマシです。
一方で、あまり連絡の頻度が高すぎるとこちらがただの暇人と思われたり、しつこいと感じられることもあります。上手く時間の間をつくるのが、仕事のできる人だなと常々思います。
あの人なんであんなに仕事ができるんだろう?と思ったら、連絡の仕方に注目してみるのも面白いかもしれません。
時間を使いすぎず、間を大切に、コントロールしていきましょう!
それでは。
思いこみの罠
前回の記事を書いててふと
「思いこみって怖いよな」と思いました。
思いこみというか「こうあるべき」とか「こうするのが当たり前」といった無意識の固定概念が人を傷つけることって多々ありますよね。
よく言われるのは例えば性のお話。人は子供を作るべきという考え方だとゲイやレズビアンといった方々の存在はあまり良いものとして映らないでしょう。自身で子供を作れなくても養子をとったり体外受精といった方法で子供を養うことは現状できるんですがね。。この件に関しては他にも様々問題あるようなのですが、私が知らないことがたくさんあると思うので当事者の方とかいらっしゃったら是非お話伺いたいです。
そして、前に書いた期待値についても「このくらいしてもらえて当たり前だろう」という感覚からくるものかと思います。
逆も然りで「このくらいで良いだろう」という感覚もズレると恐ろしいです。
例えばお客さまからのメールが来た時、私の会社では届いたその日もしくは翌日までには必ず返すのが暗黙の認識なのですが、それをしない人も社内にいたりします。
新入社員で勝手を知らなかったなら、1度指摘して直るということもありますが、何度言っても直らないケースがあります。
その中でも本人が分かっていてもやってしまう…申し訳ない…と思っているならある程度仕方のない、もしくは他の対処法を考えたら良いと思います。
しかし、それでも直らない場合は「感覚のズレ」が原因だと思います。本人の「これくらいで良いだろう」を修正していないパターンが一番怖ろしい。。
口では「忙しかったから」「メールに気がつかなかったから」と他の理由が出てきても、本当にそうなのか、本人も周りも見極めないといけないと感じます。
と、ここまでの内容を今日の朝の10時までに書いて下書きに残し、さっきまで運動をしてきました。
とある武道で修行してるのですが、皮肉なことに先述の「感覚のズレ」に私自身苦しんでました。
私の場合は体感覚のズレが大きく、例を挙げると自分ではまっすぐ突きをしているつもりでも側から見ると斜めになっていることがあります。
ズレの自覚があればそれを修正すればいいのですが、自分ではどうも上手く分からない。今までもそういったことは多々あったのですが、意識していれば直ると思っていた脳筋の節があり、自分の不甲斐なさにちょっと悲しくなりました。
まあ、ズレているということが分かっているだけマシだと思って、しばらくは自分の姿を鏡に映したりビデオで撮ってみたり、対処をしてみたいと思います。
思いこみに気づけたら、行動あるのみ!!!!!
それでは。
言ったもん勝ちの世の中
お世話になっておりますを気軽に使いすぎ説
思い立ったが吉日
今回は私の好きな
思い立ったが吉日
ということわざがテーマです。
意味としては「何かをしようと思い立った日が吉日と思って、とりかかったほうがよい」
このブログも思い立ったが吉日!で始めました。
このことわざについて、
なぜ大切と思っているのか?について書いていきます。
理由は2つあって
1つ目に、思い立ったことにとりかかることで、自分の中にある軸(不変なもの)に触れられるから。
何かに対してやってみたいと思う気持ちって、理屈以上に何か直感的なものが強く働いていると思っていて、それは自分の中にある軸から外れたものではないのかなと。
軸、について詳細な言語化が難しいのですが、自分を成り立たせているもの、根本の考え方倫理観に近いのかなと思います。
そもそも軸がなんでいるの?って話なんですが、
私の場合昔から周りには意見の主張が強い人たちが多かったせいか、常に周りに従うことを優先していて…まあ…その方が楽だったんですよね、今思えば。
その結果、周りに振り回されて疲弊することも多々ありました。
でも自分の軸を少しずつ持てるようになってからは、周りの意見に対して自分のスタンスは持てるようになって、従うにしてもしないにしても自分の足で立っている感覚を持てようになったと思います。
そして、その方が周りのことを知ろうと思えるんですよね。不思議なことに。
自分の軸を持つことで周りとの相違点を感じられると、より他人との関係性を意識できるんだと思います。
あ、ただこれは自分は自分、他人は他人で区切りをつけ切り離してしまうことではなく
あくまで自分の軸と他人の軸が触れた上で、どちらも尊重して触れ合うということです。
社会人になってからこの軸の触れ合い方はすごく重要だと思っているのですが、長くなりそうなのでまた別の機会で…。
さて1つ目が長くなりましたが、2つ目の理由については単純に、
自分を後押ししてくれるから、です。
軸に沿ったことといってもそもそも何かを始めるのって億劫ですよね。
自転車も漕ぎはじめが大変なように、スタートって面倒。そんなときに勢いにして始めやすくなる魔法の言葉が「思い立ったが吉日」だと思います。
何かをやりたい、という自分の声が聞こえたらぜひ
「思い立ったが吉日!」
それではまた次回…